【連載】ロシアの実像を探る(12)北方領土問題の行方(完)

   

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「4島一括返還論」が生まれた背景

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Signboard_Japanese_northern_territories.jpg

 

 

1945年の終戦から足掛け10年近くの間は、日本の国会でも政府でも、北方4島の問題が大きく議論されることはありませんでした。戦後の大変な時期で他に処理せねばならない事項(特に国内経済関連)が山積の状態でしたから、この問題にまで注意を向けるだけの余裕がなかったこともあるでしょう。

 

また、対ソ国交回復は課題として挙げられていたものの、領土よりもまずはソ連に抑留されてしまった60万人とも言われる日本の軍人・非戦闘員の帰国をどう早く実現させるかの方がより緊急度の高い問題でした。そしてサンフランシスコ平和条約(1951年締結、翌年発効)が批准される前後の国会審議の場で、当時の外務省条約局長(条約の解釈についての最終権限者)は、国後・択捉も放棄した千島列島に含まれるとまで明言しています。

 

しかし、それから1956年の日ソ国交回復交渉に至るまでに、日本は4島一括返還の論を持ち出すようになります。この背景には、日本国内の政局問題に加えて、当時の米国務長官/J.ダレスの“恫喝”が有ったという解釈が専らです。その頃までにソ連との関係が急速に悪化していた米国が日ソの親密化(日本の共産化)を嫌って、「若し4島ではなく2島(歯舞・色丹)でソ連に妥協するなら、米国は沖縄を返還しない」と日本に迫ったとされます。

 

この“恫喝”が実際に有ったのかについて、外務省の公式文書では確認されていないようです。しかし、日ソの交渉に関わった人々が、それを事実として伝えています(最も早くこの件を伝えたのは、1956年8月30日付のThe New York Times紙でした)。

 

日本の主体性に疑問符を突き付けるロシア

https://pixabay.com

 

今のプーチン政権はこの点を衝いてきます。サンフランシスコ平和条約でも明確に日本自ら放棄したという千島列島に、後になってアレコレ言ってくるのは、結局米国に「そう言え」と言われたからだろう、と日本の主体性に疑問符を突き付けています。プーチン自身も直裁に、日本は自主的に物事を決められるのか、という疑問まで公の場で述べています。

 

これは「日本は自分で自分のことを決められる主権国家なのか」と問うているわけで、日本人の我々にとっては何とも屈辱的な話です。そして、日本の国防を大きく米国に依存している日本としては薄々にでもこれを認めざるを得ないからこそ、余計に言われたくはない点なのです。

 

後になって気が付いたから主張を変えるということ自体は、恐らく違法ではないでしょう。しかし、対象の4島が現実にはロシアの支配下にある以上、それを断念させて返還して貰わねばならない立場としては、自らの主張の変更がその切っ先を鈍らせるという面を否定できないものにしています。

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ロシアの主張における弱点

サンフランシスコ平和条約署名式 https://ja.wikipedia.org

 

ならば、ロシアに理があって、日本が単に駄々を捏ねているだけなのでしょうか。そうではなく、ロシアの主張にも弱点があるのです。それは旧ソ連がサンフランシスコ平和条約に署名しなかったとことに求められます。

 

そもそも北方4島を含む旧日本領をソ連が占領したその根拠は何かと言えば、後の対日戦勝国となった米英ソ三国首脳で終戦前(1945年2月)に合意されたヤルタ協定だ、とロシアは主張します。この協定では、日本が敗北した後の処理方法が取り決められ、実質的に樺太や千島のソ連による占領を英米も認めていました。

 

しかし、その協定に日本は関与しておらず、関与した三国間では国際法的に有効であっても、日本には本来及ばない性格のものです。日本が領土割譲を正式に認めたのは、連合国とのサンフランシスコ平和条約に於いてなのです。そして、当時の国際政治の状況から、旧ソ連はこの平和条約に署名しませんでした。

 

そうなると、敗戦国との平和条約を締結せずに、それ以前の戦勝国間の取り決めだけでその敗戦国の領土を奪えるのか、という大きな疑問が生じます。さらに、仮に百歩譲って日本が国後・択捉を含む千島全島を放棄したとしても、ソ連が平和条約に加わっていない以上、それは即ちソ連領になるということにはならない、となります。

 

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