瀬長亀次郎はどう生きたか

      2019/11/11

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「記憶力」

(瀬長は毎朝、この文机に向かい日記や原稿を書いた 提供:不屈館)

 

瀬長は文章を書くのに長けていた。

日々直面する出来事について、毎朝5時ころに起きて日記に記した。

毎日千字から3千字、本を書くとなれば1日で原稿用紙30枚をさらっと書き上げた。

だが、それ以上に凄まじかったのは記憶力だ。

 

例えばこんな日記がある。

「教公二法」という法案に関する立法院議長とのやり取りについてだ。

「何時何分、議長が・・・と発言。何時何分、自分は・・・と返答」といくつものやり取りを分単位で記憶し、翌朝の日記に書き残していた。

大事な場面では必ず時間をとって記憶した。

「いつも懐中時計を持ち歩いていたのを覚えています。とにかく数字には強かったようです。

演説でも、メモを見ないで億単位の数字をスラスラと喋るので、聴いている人たちが驚いたと聞きます」(内村さん)

 

「素顔」

(瀬長が愛用した懐中時計 提供:不屈館)

 

極度の負けず嫌いで、不正を許さない性格だった瀬長。

内村さんは幼少期、事あるごとに叱られたという。

「嘘をつくとか、門限を守らないとかで烈火のごとく怒られました。小さい頃は父親がとにかく怖かった。

数が多すぎて、私自身はなぜ叱られたのか細かく覚えていません。

でも父親が毎日書いていた日記には、なぜ私を叱ったのかまで詳細に書き残されていました」(内村さん)

 

家では厳しい父親としての顔を持つ瀬長だったが、政治家としては庶民派を貫いた。

瀬長は1970年に国会議員となってからも、周囲に「先生と呼ばないで欲しい」と伝えて回った。

実際、瀬長を「先生」と呼んだのはごく限られた人たちで、沖縄の人々は親しみを込めて「カメさん」「カメジローさん」と呼んだ。

7期連続19年にわたり衆院議員を務めた瀬長は、あくまで1人の沖縄県民であるという立場を忘れなかった。

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「代弁者」

 

米兵による幼女や婦女の暴行、殺害。

米軍トラックによる少年の轢死。

多くの死傷者を出した戦闘機の墜落事故。

戦後沖縄の日常の中で、米軍関係者が引き起こした多くの事件。

それを裁くのは全て米軍であり、沖縄の人々の感情が入り込む余地はない。

保守革新なく、米軍への不満が募っていた。

 

そんな苦境にあって、沖縄の民衆は瀬長の演説に酔いしれ、熱狂した。

「父親の演説は沖縄の方言を使いながら、難しい政治の話を簡単なたとえ話に変えて笑いを取るんです。

実際に演説を聞いた人たちに話を聞くと『カメさんの追っかけをしていた』『筵を持って、家族総出で演説会に出かけた』という人も多いです」(内村さん)

 

公然と米軍を批判すれば、簡単に逮捕される時代。

しかし、逮捕さえいとわず時に真剣に、時に痛快にアメリカをコテンパンにしてしまう瀬長の演説。

それは一種のエンターテインメントでもあり、聴衆の心を晴れやかにした。

戦後、理不尽な状況に直面していた沖縄。

瀬長はその代弁者だった。

 

「人間らしく生きたい」

 

(衆議院議員時代の瀬長 提供:不屈館)

 

米軍の圧力に屈せず、戦後沖縄の苦しみを訴え続けた瀬長。

彼を突き動かしたものは何だったのか。

内村さんは言う。

「米軍の統治下で、沖縄の人々は人間として扱われていませんでした。

自分や自分の家族がいつ事件に巻き込まれるか分からない。

事件が起きても、自由にモノを言うことさえ許されなかった。

だから、亀次郎の心にはいつも『人間らしく生きたい』という欲求があったのだと思います。

亀次郎は夢だった医者にはなれなかったけれど『世直しの医者』にはなった。

私はそう思っています」

 

「不屈館」

沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った、瀬長亀次郎(元衆議院議員)が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の戦いを後世に伝えようと設立された資料館。

開館時間:午前10:00〜午後5:00(入館は午後4:30まで)
休 館 日:毎週火曜日・年末年始(12/28〜1/3)

大人500円/大・高校生300円/中学生以下無料
障がい者無料(介助者1名無料)
65歳以上400円/団体(10名以上)400円

〒900-0031 那覇市若狭2丁目21-5
TEL:098-943-8374

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https://www.levada.ru/2016/04/07/mezhdunarodnye-otnosheniya-2/

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