瀬長亀次郎はどう生きたか

      2019/11/11

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「解放軍」

 

終戦直後、沖縄の人たちは米軍に対して「日本軍を駆逐した解放軍」というイメージを持っていた。

民主主義の旗を掲げた解放軍なのだから、自分たちをちゃんと扱ってくれるだろうという期待があったからだ。

ところが、米軍にとって沖縄はただの戦利品にすぎなかった。

 

夜な夜な米兵が女性を探しに集落を歩き回り、婦女暴行が頻発。

住民は集落の入り口に見張りと酸素ボンベ缶を置き、米兵が来れば打ち鳴らし、女性を隠す合図とした。

実際、瀬長も婦女暴行の現場に遭遇し、止めようとした夫が米兵に射殺されるのを目の当たりにする。

 

瀬長は「うるま新報」の紙面で米軍の本性を知らしめたいと考えていた。

しかし、米軍から紙とインクを支給されなければ新聞すら発行できない。

現状を変えるのは困難だった。

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「英雄」

(1956年4月9日、見栄橋広場にて開催された歓迎大会 提供:不屈館)

 

1950年に朝鮮戦争が始まると、米軍は沖縄の基地を拡大する必要に迫られる。

しかし、農地の接収に反対した農民が反対運動に立ち上がり、それを支持していたのが瀬長であり「沖縄人民党」だった。

1952年、瀬長は「うるま新報」の社長を辞して政治家への転身を決意。

同年行われた第1回立法議員選挙で那覇市区から立候補し、トップ当選を果たす。

 

基地拡大に血眼になっていた米軍は、目障りだった人民党関係者40人近くを逮捕・投獄。

1954年「沖縄人民党事件」だ。

逮捕された瀬長は、即決裁判で2か年の懲役判決を受ける。

瀬長が投獄されていた2年間で、伊江島(国頭郡伊江村)、伊佐浜(宜野湾市)、小禄(那覇市)などの土地接収が一気に行われた。

 

ともに投獄された仲間の一部は反米の立場からの転向を強制され、出獄していく。

その中にあって、ついに瀬長は意思を曲げることはなかった。

1956年4月9日。

刑務所の門から歩み出た瀬長を、沿道に列をなした大勢の市民が歓声とともに出迎える。

そして、当日の夜開かれた「歓迎大会」には1万人以上の人々が集った。

 

弾圧をはねのけ、沖縄の英雄となった瀬長。

米軍の焦燥感は高まる一方だった。

 

 

「獄死」

(瀬長への激励は数知れなかった。宛先住所が「那覇市」のみでも、ちゃんと自宅に届いたという 提供:不屈館)

 

 

沖縄の統治にあたって米軍は「沖縄を民主主義のショーウィンドーにする」と喧伝。

しかし、米軍が瀬長に加えた執拗な弾圧はこれに逆行するものでしかなかった。

逆に「自分たちがアメリカに民主主義を教えようではないか」と何度も民衆に訴えた瀬長。

世界最大にして最強の軍隊組織を相手に、怯むことなく対峙し続けた。

たとえ殺されそうになったとしてもだ。

 

沖縄刑務所に収監中の1956年、瀬長は重篤な胃潰瘍を患い、胃の摘出手術を受ける。

施術医は機転の利く人物だった。

手術中、米軍の手回しで機器類の電源が落とされるのではないかと考え、ひそかに予備の電源を用意した。

すると本当に電源が切断される。

米軍は瀬長を獄死させようとしていた。

 

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