瀬長亀次郎はどう生きたか

      2019/11/11

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「地上戦」

wikipedia

 

 

第二次大戦の戦局がいよいよ危うくなる中、瀬長にも召集令状が届き、従軍記者として2年間、中国戦線に送られる。

戦場から書いた記事はほとんど採用されることはなかったが、物資を運搬する部隊にいた瀬長は、ケガをし置き去りにされそうになった沖縄出身の兵士数名を物資を降ろして車両に乗せるなど、現地では軍規違反に近い行動もとっていたという。

「軍事裁判で裁かれてもおかしくない行動ですが、当時は既に、軍が機能しなくなっていたから何事もなかったのでしょう。本人は殆ど話しませんでしたが、後に亀次郎に助けられた元兵士の方が話していた出来事です」(内村さん)

 

復員後の1945年4月1日、沖縄で地上戦が始まった。

県南部の住民は戦火を逃れるため、北へ北へと疎開する。

瀬長一家も例外ではなかった。

瀬長は豊見城にいた母、そしてハワイから帰国した父の手を引いて着の身着のまま北に向かった。

一家がたどり着いたのは、今、新基地建設で揺れる名護市の集落だった。

当時、約10万人もの県民が北部に疎開したが、住居も食べ物もなく餓死者が相次ぐ。

瀬長の母も栄養失調のため、疎開先で命を落とした。

「身重だった私の母(瀬長の妻フミ)と姉たちは親類を頼って宮崎県に疎開していて、私は宮崎で生まれました。米軍から逃れるために、流産覚悟で船に乗ったと聞きました」(内村さん)

8月15日、瀬長は捕虜収容所で敗戦を迎える。

沖縄の戦後が始まった。

 

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「米軍の新聞」

 

敗戦の年、瀬長は田井等市の助役に就任。

捕虜として収容された避難民を故郷に帰す仕事に奔走していた。

そんな中、米軍が宣撫工作のために作った「うるま新報」(現「琉球新報」)初代社長・島清(しま・きよし、後に社会党参院議員)に見初められ、次期社長にと声がかかる。

 

終戦直後、戦犯の公職追放が始まっていた。

島が「瀬長は戦争に反対した人物だ」と説明すると、米軍はすぐさま承認。

瀬長はこれまで米軍が全面的に資金を提供し、無料で配布されていた新聞の有料化、配達に使うジープの提供などの条件の下、社長に就任する。

米軍の関与を極力なくし、新聞を通して沖縄の現状を訴えようと考えていた。

1946年、39歳の時だった。

 

「逆コース」

 

しかし、終戦から始まった戦犯追放の流れは長くは続かなかった。

1947年ころから占領軍の対日政策が180度転換され(時期については諸説あり)、日本は「共産主義の防波堤」としての役割を担うことになる。

いわゆる「逆コース」だ。

戦犯として公職を退いていた政治家が続々に復職し、保守勢力が復権。

占領軍によって進められた日本の「非軍事化・民主化」の試みは、完遂を見ないままに終わる。

 

瀬長は沖縄の地で革新政党を作ろうと考えていた。

しかし、アメリカ本国でもレッドパージが激しさを増していた時代。

まして米軍の統治下にある沖縄で、社会主義や共産主義を掲げた政党を作ることは至難の業だった。

そこで瀬長は、思想的な側面よりも米軍の統治そのものへの反対を主眼に据える。

戦前から社会運動に携わっていた者を訪ね歩き、1947年に「沖縄人民党」を結成。

「うるま新報」社長就任の翌年、40歳の時だった。

 

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