瀬長亀次郎はどう生きたか

      2019/11/11

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(瀬長亀次郎 提供:不屈館)

 

 

「米軍が最も恐れた男-その名は、カメジロー」で映画化された沖縄の政治家・瀬長亀次郎。

戦後沖縄の人たちが直面した不条理を内外に訴え、自由と権利を求め続けた瀬長の姿は、今も沖縄の人々の脳裏に焼き付いている。

瀬長の活動に関する資料を展示する「不屈館」館長の内村千尋さん(74歳、瀬長の次女)から、激動の戦後沖縄を走り抜けた瀬長の半生について聞いた。

 

「神童」

(不屈館館長・内村千尋さん)

 

1907年、瀬長は沖縄県豊見城村我那覇(現在は豊見城市)の貧しい農家の次男として生まれた。

生活費を賄えず、瀬長が3歳の時に父親がハワイに出稼ぎに出るほどだった。

父親が沖縄に戻ったのは十数年後であったことから、母親がひとり瀬長ら兄姉を育てた。

「亀次郎の母は芯の強い女性だったと聞いています。亀次郎には『絶対に曲がったことをしてはいけない。筵の綜(むしろのあや)のように、真っ直ぐな人生を歩きなさい』と口癖のように話したそうです」(内村さん)

 

貧しい村にあって、瀬長は神童として知られていた。

幼少期から「将来は医者になって両親に楽をさせてやりたい」と考えていたという。

「中学の頃、亀次郎が毎日木の上で変なことを喋っていると村中で評判になったそうですが、実は英語のスピーチの練習をしていた。当時は戦前で、皆、英語なんて聞いたことがありませんから」(内村さん)

 

瀬長はなぜ、勉強ができたのか。

内村さんは「父方の家系で特別に優秀な人物が出たとか、家柄が良いわけでもない。母親も学のある人ではなかったし、亀次郎は突然変異なのかも知れない。理由は誰にも分かりません」と笑う。

瀬長は、沖縄県でも随一の進学校・沖縄県立第二中学校(現那覇高校)に入学。

その後、東京の私立順天堂中学校に編入し、旧帝国第七高校(現鹿児島大学)に合格した。

七高時代、瀬長を指導した恩師・松原多摩喜は「沖縄から秀才が来た」と回顧している。

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「社会主義」

 

沖縄から本土の学校に進学すること自体が珍しかった時代。

まして戦前は、本土の人間が沖縄出身者を差別する風潮があった。

ところが瀬長の口から、差別を受けたという話は一度も聞いたことがないと言う。

「当時、就職で本土に向かった沖縄出身者たちが『朝鮮人と沖縄人はお断り』と言われ、大変苦労した時代でした。亀次郎は成績が良かったらしいですから、本土の学友にも一目置かれていたのだろうと思います」(内村さん)

 

七高に入った瀬長は「社会科学研究会」に加わり、社会主義思想に傾倒した。

しかし当時は、治安維持法が吹き荒れていた時代。

1928年、社会主義運動にかかわった先輩を下宿先に泊めたことを理由に、瀬長も一緒に逮捕される事件が起きる。

取り調べの末に釈放されるも、既に学校側は瀬長を放校処分としていた。

父親はこれに激昂する。

「『アカ(社会主義者)と思われるような活動をしているのだったら、私は何のために仕送りをしているのか。金を全て那覇の港に捨てているようなものだ』と、亀次郎を勘当して仕送りを止めたと聞いています」(内村さん)

家庭教師の仕事をしながら生活したが、どうしても学校に戻ることができなかった瀬長。

上京し、人権を無視された韓国人労働者の支援活動を始める。

 

「伴侶」

(35歳、毎日新聞社で記者をしていた瀬長。若い頃は武道を嗜むなど、むしろがっしりした体格だった 提供:不屈館)

 

上京した瀬長はトンネル削掘などの肉体労働に従事し、労働争議の支援を続ける中で日本共産党に入党。

しかし、これらの活動が当局の目の届くところとなり、25歳だった1932年、再び治安維持法で検挙され懲役3年の実刑判決を受ける。

沖縄刑務所を出所後、特別高等警察(特高)が付きまとう生活を送った瀬長。

そんな中、後に生涯の伴侶となる西村フミに出会う。

沖縄県庁の職員として働いていたフミ。

当時、進歩的とされた「婦人公論」などの書籍を読み、瀬長とは考え方が合った。

「母方の血筋は優秀で、祖父は東大出の官僚、祖母は教師、普通の人たちが裸足で歩いている時代に靴を履いているような家庭です。母もお嬢様育ちで、大和撫子のような人でした」(内村さん)

瀬長は家族を養うため「沖縄朝日新聞社」や「毎日新聞社」の記者として働いた。

 

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