【ロシア極東と日本】第2回 「北方領土」と「千島列島」

   

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「千島列島」とはどこか

択捉島 https://pixabay.com

 

日本の地図で「千島列島」と「樺太(サハリン)」南部が空白になっているのは、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約で、両者の領有権を放棄したからである。しかし、同条約にロシア連邦の前身、つまり当時のソ連は調印していない。したがって、日本領ではないが、どこかの国の領土であると日本が法的に承認してはいない。もっとも、領有権は放棄しているから、どこかの国(現状はロシア)が実効支配していても、「その帰属についての見解を述べる立場にない」(ロシアかどうか、それは知らない)、という不思議な立場が日本政府の公式見解である。

樺太については別の機会にして、まず「千島列島」とはどこかを考えてみよう。いまわたしの手元に、1934年に北海道庁が作成した『千島概誌』という本がある。いわば、地元作成の公式ガイドである。その冒頭、次の記述がある。

 

千島列島とは北緯43度40分東経145度33分国後島南端「ケラムイ」埼より、北緯50度52分東経156度29分占守島北端国端埼に至る凡そ1800キロ間に羅列する大小24の総称にして即ち南部千島に属するもの国後島、択捉島、色丹島の3島〔……〕

 

すぐにわかるように、いまの日本政府公認の「千島列島」とは範囲が異なる。現在の「北方領土」のうち、歯舞群島を除く3島も千島列島に含まれている。「千島」が正式な地名として存在したのは1869年から1897年までのことである。1869年、それまで蝦夷地と呼ばれていた島が「北海道」と命名された。北海道は、島内を11の「国」という行政単位に区分した。そのうち最東端に位置したのが「千島国(ちしまのくに)」である。

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千島国には当初、1855年締結の下田条約(いわゆる日露和親条約、ないし日露通好条約)で日本領となった国後島と択捉島が帰属された。1875年のサンクト・ペテルブルグ条約(いわゆる樺太千島交換条約)によって新たに日本領となった択捉島より北、得撫島(うるっぷとう)から占守島(しゅむしゅとう)までの列島も千島国に編入された。そして、1886年には根室国の色丹島も千島国に帰属替えとなった。

1897年に国制度が廃止され、千島国の島々は根室支庁の管轄となる。これ以降、千島という地域区分は、北海道庁の公的な統計を含めて、通称として広く用いられていた。『千島概誌』にある通り、この千島のうち国後・択捉・色丹の3島は南部千島と呼ばれた。それより北の島々は、中部千島・北部千島に二分された。

つまり、現在の日本の地図での「千島列島」は、戦前の北海道の歴史を抹消して、新たにつくり出されたものである。地図上の「空白」は、わたしたちの歴史認識を空白にしてはいないだろうか。

戦前の中部千島・北部千島のみを現在「千島列島」と呼ぶひとつの「根拠」は、それまで日本とロシアの共同領有地だったサハリン島をロシア領とする代わりに、得撫島から占守島までを日本領とした1875年の条約に由来する。

この条約は、歴史教科書でも「樺太千島交換条約」と表記されるが、あくまでこれは日本国内における通称にすぎない。条約名は、締結された場所の名前で表記するのが国際的な慣例である。だから、これまでも「いわゆる」という表記をわざわざつけてきた。そしてそれが誤解を招く。そこで日本領となった島々だけが「千島」であると。しかしそれもやはり日本「独自」の歴史認識であり、それは南部千島に暮らしていた人びとの歴史を奪い去ることである。

 

 

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